【子育て】中学受験で失ったものと得たもの
全ては成長のためにある。
成長によって得られるものもたくさんありますが、失ってしまうものも多いです。
今回は、わたしが中学受験で失ったものと得たものをご紹介していきます。
- 知育子育てを実践したい
- 読書好き、勉強好きな子どもに育ってほしい
- 子どもに伸び伸びと育ってほしい
- 子どもの能力を最大限に伸ばしたい
- 中学受験の意義を知りたい
そんな方は今回の記事が役に立つはずです。
とりわけ、
- 子育てを終えた母親視点
- 息子視点の解説
を組み合わせて紹介していきます。
失ったもの
わたしが中学受験で失った最大のもの。それは、
- 自分の時間
これに尽きます。
1年間読書をしませんでした。
1年間真剣に遊びませんでした。
1年間山に登りませんでした。
1年間「じっくりと」勉強しませんでした。
全てを受験勉強に捧げました。
勉強ではありません。
受験勉強に捧げたのです。
修学旅行の2日間を除いてずっと勉強していました。
これまでわたしが行っていた勉強とは全くの別物でした。
試験に特化した脳みそに改造する必要がありました。
参考書で学んだことを自然の中で実際に確かめるというような「非効率な」勉強は消滅しました。
家族で楽しんでいた古典の暗唱大会は消え去り、機械的な暗記作業に変わりました。
- 計算は速くする
- 年号は正確に覚える
- 問題は素早く正確に解く
- 捨てる問題と落としてはいけない問題を見極める
時間を気にした勉強に特化しました。
- まるで流れ作業のようだ
私は少6のときにそう呟きました。
これを聞いた父はいっそのこと中学受験を辞めさせようかと思ったようです。
でも、中学受験をやりたいと言ったのは私です。
それに、私は流れ作業自体を楽しんでいました。
今まで経験したことがなく、目新しかったからです。
それがゆえに、自分の時間は失われてしまいました。
模試と入試。
点数と偏差値と順位と合格判定。
私の独学学習では決して介入することのなかった要素が最重要視されました。
好奇心からなされるのびのびとした学習は消え去り、一つの目標・数値を追いかけた勉強に変わりました。
それはすなわち、自分の時間を失うことに他ありません。
自分の時間を失うということは、自分の人生を生きていないということです。
ともすれば
- 自分自身を見失う
可能性も大いにあったのです。
幸い私はわずか1年という短期間しか中学受験勉強に取り組んでいなかったっため、自分を見失うことはありませんでした。
それでも、1年間もの自分の時間を失ったことには変わりありませんでした。
得たもの
多くのことを得ました。
中学受験の機会を与えてくれた両親に感謝します。
- 自信
- 経験
- 視野
この3項目について解説していきます。
自信
中学受験で手に入れた最大のものは自信です。
通常、入試に合格するには塾や家庭教師が必須だと言われています。
それにもかかわらずほぼ独力で試験を突破することができました。(←模試と講習会だけ塾にお世話になりました)
12歳のわたしにとってこれは大きな自信になりました。
他人に頼らなくても、自分で出来るんだと実証できました。
これは3年後に迎える灘高受験で大いに役立ちました。
完全独学を貫いたのは中学受験で得た自信が大きく寄与しています。
追記
もし、中学受験が他人から押し付けられたものであれば、自信は得られなかっただろう。
単純に周囲の期待に応えただけであり、それ以上でもそれ以下でもない。
挨拶されたら、挨拶を返すのと同じくらいだ。
単なる通過儀礼だ。
私が自信を持ったのは、自分がやりたいと言って始めた中学受験で納得のいく結果が得られたからである。
つまり、
- 自分の任務を自分で全うできたから自信がついた
のだと思う。
もちろん、これには適切な親のフォローがあったからに他ならない。
親の手助けがなければ、全てはうまくいかなかった。
私の親は、
- 子どもが親の力を借りたと気づかないように手助けをする
ことに長けていた。
だからこそ、私は揺るぎない自信を持ったのである。
経験
生まれてはじめて序列化と競争の渦にさらされました。
わたしの家庭では意図的に競争社会から遠ざけた子育てを行っていました。
大規模なコンクールや大会にあまり応募しなかったのもこのせいです。
また習い事もいっさいしていなかったため、他人と比べられることもありませんでした。
そのため、わたしにとって中学受験は本当に新鮮な経験となりました。
全ての子どもが点数によって評価され、順位が名前とともに公開され、座席の位置も決まるのです。
偏差値という言葉を知ったのもこのころでした。
小6になってはじめて受けた模試では驚きの連続でした。
- 歴史の年号をスラスラと言える子ども
- 自分が文字を書くよりも速いスピードで計算してしまう子ども
- 極めて論理的に完結した会話ができる子ども
全てが目新しく思われました。
塾に通っている全ての子どもたちを尊敬の目で眺めました。
自分が生きてきた世界とは次元が異なりました。
補虫網ばかり振り回していた私の右手は鉛筆に持ち替えられました。
野外を飛び回って世界を広げていた私は、机の上だけで新しい世界を追求することになったのです。
追記
もし、中学受験をしていなかったら…。と思うことがある。
おそらく灘高受験もしていなかった。
みんなと一緒に地元公立に進学して、地元のちょっと有名な高校に進んでいただろう。
それも全然悪くない。
私はいくつも存在する理想の選択肢のうちの一つを選んだにすぎない。
現実の私は中学受験という道を選んだ。
視座
明らかに自分の世界が広がりました。
視野を広げるというよりは、
- 新たな視座を据える
という表現の方が適切かもしれません。
地元コミュニティというあまりに狭い共同体から脱却しました。
聞いたことのない地域に住んでいる子どもたちと交流を持つことができました。
中学受験という、田舎者からすれば意味不明の行事に参加する子どもたちと交わりました。
一つの目標に向かってこれほども大勢の子どもたちが勉強していることに圧倒されました。
いや、それだけではありません。
中学受験をしたおかげで、中高一貫校という特殊な人が集まった学校に入学することができました。
そこでは自分の考えを論理立てて説明できる人、自分の軸をしっかりと携えている人、日々の挑戦を楽しみに生きている人…。
様々な人と出会いました。
これがもし、地元公立に進んでいたとしたら…、
一学年50人にも満たない小さな中学校です。
外部との交流は少なく、慣れ親しんだメンバーばかりです。
私は中学受験をすることで、全く新しい世界に飛び立つことができました。
そのおかげで、素晴らしい友人たちと新たにめぐり合うことができました。
- 新しい世界に行く=新たな視座を据える
- 新しい人と出会う=視野を広げる
12歳の自分にとって、中学受験は人生の転換期とも言えるほどの衝撃を与えました。
最後に|受験という消耗戦
冷静に考えると消耗戦です。
問題を作成する側も、試験を受ける側も、そしてまた受験者を支える家庭も。
多くの人が受験というものに、信じられないほどのエネルギーを投下しています。
私もそのうちの一人です。
(小学受験、)中学受験、高校受験、大学受験、大学院受験…。
最初のうちは心から楽しんで取り組んでいました。
中学受験では、田舎のほのぼの生活とは真逆の世界を体験できました。
高校受験は、そのまま自己実現として捉えていました。
それが次第に疑問や迷いが介入してくることになります。
大学受験は、人生の方向と目下目指している方向の乖離に疑問を抱きました。
大学院受験は、落ちたら終わりの厳しい現実と向き合いました。
私が思うに、
- 受験とは、人を盲目にさせてしまうもの
です。
入試は、多様な才能を持って生まれた子どもたちを一側面から評価し、序列化し、セレクションするという、無慈悲な作業です。
そんな受験を生かすも殺すも本人次第です。
それでは!
母は褒めるの上手
尊敬する父
受験まみれの私
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