受験反対の家庭で育ったけど、受験まみれの人生になった

父は受験が嫌いだった。
点数と偏差値に子どもを縛り付ける仕組みを、心底嫌っていた。教育学を学んだ人間として、受験勉強が人間の本来の学びを歪めると確信していた。だから、私を受験から遠ざけようとした。
その父に育てられた私は、小学・中学・高校・大学・大学院と、5回の受験をくぐり抜けた。
父が最も避けたかった道を、私は自分で選び続けた。
これは、その記録だ。
始まり:隣の工場と、日本一自由な学校
小学1年生の夏休み、私はきのくに子どもの村学園に編入することになった。
家の隣にもともと工場があった。その工場が基準を上回る操業を始めた。騒音、振動、臭気。生活環境が一変した。家族で移住する案も出たが、経済的に難しかった。せめて息子だけでも——そういう経緯だった。
父は以前からきのくにの教育哲学に共鳴していた。自己決定・個性化・体験学習。受験とは正反対の理念を持つ学校だ。父にとってはむしろ理想に近い選択だったはずだ。
私にとって、きのくにの半年間は夢のような時間だった。
山から粘土を運んでかまどを作った。地元のおばあちゃんから郷土料理を習った。田んぼで稲を刈り、古民家に泊まり、火をくべて風呂を沸かした。毎日が遠足のようで、月曜日になるのが待ち遠しかった。
そして、半年で辞めた。
地元の公立に戻ったとき、先生から言われた言葉が忘れられない。「きのくにで何を学んだの?」漢字が読めない。計算が遅くなっている。ちょっとデキる同級生から笑われた。
その日、家に帰って母に言った。「もっと勉強したい。」
それがすべての始まりだったと、今は思っている。
中学受験:いとこの背中を追って
私が親の次に尊敬していたのは、いとこだった。
会うたびに学校の話を聞かせてくれた。その目が輝いていた。私の知らない世界の話だった。「ぼくも、そういう学校に行きたい。」そう思うようになったのは、自然なことだった。
中学受験を決めたのは、自分だった。父に言うと、少し困った顔をした。でも、止めなかった。
塾には通わなかった。行くお金もなかったし、他人のペースに合わせるのが性に合わなかった。独学で問題集を解き、模試だけ受けた。塾に通い詰める同級生を見ながら、自分のペースで先へ進んだ。
関西の難関6校に出願した。灘以外、全校合格した。
結果を見て、父は複雑な顔をしていた。喜んでいるのか、困惑しているのか、わからなかった。でも、全力で応援してくれた。それだけは確かだった。
高校受験:全員に反対されて、それでも決めた
合格した私立中学に入学して、すぐに違和感を覚えた。
宿題が膨大だった。課題を全部こなすことが目的になっていた。自分のペースで考える時間が削られていく。「勉強は強制するもの」という空気が教室に漂っていた。私が最も嫌いとするものだった。
中3の秋、私立を辞めて地元の公立に転校し、灘高を受験することにした。
両親、親戚、学校の先生——反対しなかった人間は一人もいなかった。「どこの高校に行こうが、大学は同じだ」と言われた。笑われた。
それでも、決意は揺らがなかった。
なぜ灘なのか。理由はシンプルだ。日本で最も優秀な同世代と同じ空間で学びたかった。数学オリンピックの受賞者が廊下を歩いている環境に身を置きたかった。そういう場所でしか出会えない刺激がある、と確信していた。
転校後、分刻みの計画を立てた。英語が最大の弱点だとわかっていたので、英語に集中した。直前期には東大の過去問を解いていた。本番で似た形式の問題が出た。「あ、これは合格した」と確信しながら答案を書いた。
合格した日、父は黙って頷いた。
大学受験:乾パンをかじりながら
東大を目指すと決めたとき、一つのことを考えた。
上京して一人暮らしをするなら、できれば自分の力で賄いたかった。両親に頼り切るのは性に合わなかった。塾も独学で乗り越えてきた。生活費も、自分でなんとかできないか。そう思った。
だから、自分で稼ぐことにした。
図書館でウェブサイト作成とマーケティングの本を片っ端から借りた。費用のかからない方法で始めた。半年ほどで収入が生まれた。その資金も合わせて上京した。
ただ、正直に言う。大学受験の勉強は退屈だった。
高1の時点で高校の学習範囲は終わっていた。受験勉強よりも専門課程の内容を学びたかった。飛び級があればと何度思ったかわからない。受験勉強は私にとって「乾パンをかじるような」時間だった。好奇心を消耗させる不毛な競争としか感じられなかった。
そんな自分を救ってくれたのが、ウェブの仕事と自転車だった。毎日、勉強以外の時間を作った。体を動かし、手を動かし、稼いだ。その時間があったから、受験勉強を続けられた。
東大に合格した。
大学院受験:これまでで最も辛かった
今まで受けてきた受験の中で、大学院受験が一番辛かった。
内部進学者の合格率は100%ではない。3人に1人が落ちる。「絶対に受からなければならない」という重圧が、他の受験とは質が違った。
直前の1ヶ月は実験を中断して試験勉強に専念した。真夏の暑さの中、毎日が過ぎていった。
合格した。でも、同期の友人が落ちた。複雑な気持ちで過ごした日々を、今でも覚えている。
受験まみれの人生を振り返って
5回の受験を終えて、気づいたことがある。
中学受験、高校受験の頃は、トップ層に入りたいという強い気持ちがあった。でも、大学以降は変わっていった。ある水準に達しさえすれば、あとは自分のやりたいことに時間を注ぎたい。そういう気持ちが強くなった。
それはシンプルに、やりたいことが増えたからだ。
大学で冬山登山を始めた。過酷な山行が、机の上では絶対に学べないことを教えてくれた。生きることの凄み、自然の脅威、精神を強く保つことの意味。その経験で、自分の世界は何十倍にも広がった。
受験は手段だった。
その先にある環境と人間と経験のために、受験という関門を通り抜けた。父が嫌っていた「受験のための受験」をしたつもりは一度もない。
父のこと
受験反対だった父が、なぜ全力で応援してくれたのか。
長い間、よくわからなかった。
今は少しわかる気がする。父が嫌っていたのは、受験そのものではなかった。「やらされる受験」が嫌いだったのだと思う。親に言われて、塾に通わされて、偏差値のために机に向かう——そういう受験が嫌いだった。
私の受験は、全部自分で決めた。動機も、目標も、方法も。父はそれを知っていた。だから応援できた。
結果的に、父の育て方は正しかった。
「自分で決める」という習慣が、受験を義務ではなく挑戦に変えた。それがなければ、5回の受験を乗り越えることはできなかったと思っている。
父に感謝している。





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