【必読】きのくに子どもの村学園に通って生活はどう変わった??【1週間の過ごし方】

きのくに子どもの村学園

私は大きく変わりました。

母曰く、「まったく別人のようになった」とのことです。

いつものガクが、ガクではなくなった。

そう呟いていたのを覚えています。

今回はきのくに時代の1週間を振り返ります。

このブログは以下の方に向けて書いています。

  • 子育てをしている方
  • (学生・大人問わず)勉強している方
  • 子どもと接する機会のある方

よろしくお願いします!

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【お知らせ】毎日更新の短文日記を始めました。

帰省する頻度

まず簡単に概要をつかんでおきましょう。

実家に帰省する頻度は人によって違います。

大きく3パターンに分けられます。

  1. 遠隔地に住んでいる人:3ヶ月に1回〜
  2. 隣県に住んでいる人:1週間に1回〜
  3. 近隣エリアに住んでいる人:毎日帰宅

と言うような感じです。

私の通っていた時代は、2番の

  • 週に1回帰省する人が圧倒的多数

でした。

1週間の流れ

私の場合は、週末は家で暮らしていました。

月曜朝に車で、集合場所の和歌山県橋本駅に向かいます。

ここから学園まではスクールバスが運行されていました。

みんなでそろって通学です(もし全員がマイカーで学園まで来たら、細くて険しい山道が大渋滞になります)。

月曜昼〜金曜昼まで楽しい楽しい学園生活です。

金曜昼になると再び駅まで送迎してくれます。

そこから家まで片道2時間半くらいかけて電車で帰ります。

大阪までは友達のお母さんが付き添ってくれました。

そこから先は、私の母と一緒に再び電車に乗って帰りました。

金曜の夕食は父とは時間が合わせられなかったので、母と食べました。

そして、土日と家でゆっくりします。

宿題も出されなかったので、両親との時間を大切にしました。

折り紙を折ったり、レゴで遊んだりすることが多かったです。

それでは、そんな私の1週間がどのようだったかについて、詳しく見ていきたいと思います。

月曜日から始めましょう!

月曜日

1週間のうちでも、最も慌ただしい朝です。

何しろ、2時間以上かけて学校に通わなければならないのですから。

幼稚園バスを待っている親子や、通学路をトボトボと歩いている黄色いランドセルの子どもたちを尻目に、車で通学します。

母は運転免許を持っていないため、父親がハンドルを握ります。

荷物は前日の夜に全てパッキングされており、あとはそれを車に積み込むだけです。

車は真っ赤なインプレッサでした。

スバルです。オートマではなく、MT車です。

幼少期から海へ山へと、好きなところへ連れて行ってくれたインプレッサです。

父がゴツゴツした分厚い手でシフトチェンジを繰り返しながら、山を越えて和歌山県橋本市へ向けて走っていた風景をよく覚えています。

大きな紀ノ川にかけられた細い橋を渡ると橋本駅に到着です。

そこには、新しくできたお友達が何人も集まっていました。

送り迎えに来ているのはお母さんだけではなく、お父さんも混ざっていました。

作家や自営業など、時間に融通が効く家庭も多かったです。

我がインプレッサはコインパーキングへ停められ、母は私の友達の母親と楽しくおしゃべりしていました。

父は遠くからそっと見守っていました。

出発時間になると、バスに乗り込んでお別れです。

私の両親はいつまでも手を振るので、それに応じて私も一生懸命に手を振っていました。

バスの中では友達とおしゃべりをします。

週末にしたこと、これから取り組むプロジェクト(授業のことです)…。

くねくねした山道でぐったりする子供もいました。

学園に到着すると、昼飯を食べます。

そして午後から授業(プロジェクト)が始まります。

火曜〜木曜日

プロジェクト(授業)の日々が続きます。

マイクロバスで遠方に出かけることもしばしばあります。

私の入っていたクラスはファームと言って、農業がメインでした。

古民家に泊まったり、郷土料理を教えてもらったり、稲刈りを体験したりしました。

夜になると、母から渡されたテレホンカードを使って、実家に電話をかけていました。

毎晩、電話をかけている友達もいましたし、私のように2日に1回くらいの頻度でかけている人もいました。

中には、お母さんの声を聞いて寂しくなってしまう友達もいました。

私の場合は、日々のプロジェクトが楽しすぎて、寂しい気持ちを抱く暇もなかったように思います。

とにかく、充実した毎日を過ごしていました。

金曜日

いよいよ、家に帰る日がやってきました。

午前は遠くへ出かけることもなく、学園内で授業が行われました。

昼過ぎから何グループかに別れて順番に最寄駅まで送迎してもらいます。

最寄駅といっても、山道をくねくねと30分ほど走りました。

そのあと、南海高野線に乗ってまっすぐ北上します。

帰りの車内では友達のお母さんが付き添ってくれました。

本当に優しい方です。

お世話になりました。

ありがとうございます。

大阪に到着して、やっと母と合流です。

私はくたびれて寝ていることが多く、母か駅員さんに起こされることが多々ありました。

そこから、家までさらに1時間ほど列車に乗るのですが…、

帰りの通勤時間とモロ被りして、結構大変だったのを覚えています。

しかし、大阪には優しい人がたくさんいて、小さな私の姿を見ると我先に席を譲ってくれました。

素晴らしい世の中です。

きのくに学園の興奮状態が冷めやらない私は、ずっと可笑しな(面白い)お話をしていました。

それにつられて周りの乗客も笑ってくれました。

それが嬉しくてさらに面白いお話をすると言う悪循環でした。

私の母は顔から日が出るほど恥ずかしかったに違いありません。

でも、みんなが笑顔になればそれでいいのです。

夕食は家で食べるのですが、父とは時間が合わず、母と二人で食べることが多かったです。

食事が終わると入浴してそのまま寝ました。

服や荷物の片付けは母が全てやってくれていました。

土曜・日曜日

実際にやったことは、主に以下の項目です。

  • 話す(きのくにで楽しかったことをたくさん話す)
  • 食べる(ここぞとばかり、母の手料理が振舞われる)
  • 遊ぶ(父がたくさん遊んでくれた)
  • 散髪する
  • 寝る(発熱が多かった)

朝起きると、父が笑顔で迎えてくれました。

きのくにで楽しかった話をたくさん聞かせてあげました。

でも、週末の2日を使っても全ての話をするには足りませんでした。

それほどきのくにで経験したことは大きかったと言うことです。

楽しそうな笑顔を見せる私を見て、両親はもっと嬉しそうにしていました。

追記

実際は、発熱に悩まされることが多かったです。

風邪を引いたわけでもなく、原因がわからないのですが、

きのくに学園から帰ると熱を出しました。そして、月曜になって行く頃にすっと治るのでした。

それが毎回続きました。

おそらく、家に帰って来て安心したから発熱が出たのでしょう。

追記2

勉強は全くしていませんでした。

きのくに学園もそうですが、私の両親も教材を使った勉強は控えようと言う方針だったと思います。

週末は、たくさん食べて、たくさん寝て、そして遊んでいました。

6歳で親元を離れると言うこと

寂しいに違いありません。

私も寂しくて寝られなくなるだろうと思っておりました。

しかし、実際にきのくにに入って生活してみると、寂しいなんて感情はごくわずかです。

毎日の授業・プロジェクトが楽しすぎて、寂しさを感じる暇もほとんどありませんでした。

本当に濃密な日々を過ごしていました。

もし、きのくにがもっと中身の薄い授業を実施していたとしたら、私は寂しいと言う感情を抱いていたかもしれません。

関連書籍

最後に、関連書籍のリンクを貼っておきます。

まずはこれらの本を読んでから考えて見ると良いです。

転入や入学を考えていなくても、教育のあり方について考えさせられます。

 

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