天才の「灘」と努力の「東大」|勉強に才能は関係あるの?

灘高には、どうあがいても追いつけない人間がいた。
円周率をノート3ページにびっしり書いた同級生。英和辞典の単語を全部覚えていた同級生。中学生でiPhoneアプリを開発してヒットさせた同級生。数学オリンピックで金メダルを取り、物理オリンピックでも結果を出した同級生。
努力でどうにかなる次元ではない。そう感じた。
一方、東大に入ると、天才はほとんどいなかった。
9割以上が、地道に努力し続けてきた人間だった。自分なりの暗記法を持ち、毎晩復習し、コツコツと力を積み上げてきた人たちだ。
なぜ、この2つの場所はここまで違うのか。そして、才能と努力はどちらが大切なのか。両方を経験してきた立場から、正直に話す。
科学は何と言っているか
まず、研究が示していることを確認しておく。
行動遺伝学の第一人者である慶應義塾大学の安藤寿康名誉教授らの双生児研究によれば、知能への遺伝の影響は約50%とされている。残りの50%は環境と経験が担っている。「才能は生まれつき決まる」という話でも、「努力すれば誰でも同じになれる」という話でもない。
さらに興味深いのは、年齢による変化だ。幼少期は家庭環境の影響が大きいが、成長するにつれて遺伝の影響が強まり、環境の影響は相対的に小さくなることがわかっている。つまり、幼い頃は親の関わりや教育環境が能力を大きく左右するが、大人になるにつれて「元々持っていた素質」が顔を出してくる。
灘高に天才が集まり、東大には努力家が集まる理由も、この視点から説明できる。灘高は中学生という、まだ遺伝的な才能が顕在化しやすい年齢層が対象だ。一方、東大合格者は高校3年間という長い準備期間を積み重ねてきた集団で、努力と戦略が成否を分けやすい。
「でも才能には敵わない」と思っているあなたへ
灘高の天才を目の当たりにして、私もそう思った時期がある。
ただ、一つだけ言えることがある。彼らと同じ土俵で戦う必要はない。
行動遺伝学の研究が示すもう一つの事実がある。知識力(語彙・知識の蓄積)は、40歳から70歳を過ぎるまで向上し続けるという結果が国立長寿医療研究センターの調査で示されている。一方、情報処理スピードや瞬発的な思考力(流動性知能)は加齢とともに低下する。
灘高の天才が誇示するのは主に後者だ。計算の速さ、パターン認識の鋭さ、記憶の即席性。これらは若さとともに輝くが、永続しない。
一方、深く考える力、知識を体系化する力、経験と知識を組み合わせて新しいものを生み出す力——これらは積み上げるほど強くなる。
灘高時代に「どうあがいても追いつけない」と思った同級生を、今の私は違う目線で見ている。彼らの才能は本物だ。ただし、それは一つのゲームにおけるアドバンテージに過ぎない。人生という長いゲームでは、どんな能力を積み上げるかが問われる。
「自分には才能がない」という反論について
才能を見つけるのは難しい。私もいまだに自分の才能がよくわからない。
ただ、才能の有無より前に考えてほしいことがある。あなたは「好きなこと」を本気で追いかけたことがあるか、ということだ。
私は運動が苦手だ。走るのも泳ぐのも球技もできない。毎朝ランニングしても3kmで限界だった。海で泳ぐ練習をしたら海底まで沈んだ。柔軟運動を試してもつま先に届かなかった。
ただ、歩くことは好きだった。
その一点を伸ばし続けた。今では1週間分の装備を背負って山脈を縦走し、厳冬期のアルプスでラッセルをする。山スキーも覚えた。20mの滝を登攀するクライミングもやった。運動音痴が、である。
才能がなかったのではない。「好き」を追いかける方向が、最初は見えていなかっただけだ。
「努力できること自体が才能だ」という反論について
これはよく言われる。そして、ある意味では正しい。
実際、行動遺伝学の研究では「継続的な努力ができるかどうか(勤勉性)」にも遺伝の影響があることが示されている。努力できること自体が、ある程度は持って生まれた素質に関係しているという。
では、努力できない自分は諦めるしかないのか。
そうは思わない。理由がある。
「努力できない」という状態の多くは、やらされている勉強や仕事に対して努力できないという状態だ。自分で選んだことに対しては、誰でも驚くほど継続できる。釣りが好きな人は雨でも早朝に起きる。ゲームが好きな人は何時間でも画面に向かえる。
東大の同級生の大半が努力家だったのも、「好きだから努力できた」というよりも、「目的が明確だったから続けられた」という側面が大きかったように見える。遺伝が50%なら、残りの50%は環境と意志が作る。その50%に賭けることはできる。
私が灘高と東大の両方から学んだこと
灘高では、自分の限界を知った。
追いつけない人間がいる。それは事実だ。ただ同時に、彼らを間近で見ることで、自分の思考の精度が上がった。凄い人間と同じ空間に身を置くことには、測りようのない価値がある。
東大では、努力の再現性を学んだ。
天才でなくても、正しい方法で積み上げれば、確かな力がつく。自分なりの方法を見つけて、毎日続ける。この単純なことを、東大の同期はほぼ全員がやっていた。
才能は出発点の違いに過ぎない。どこまで積み上げるかは、出発点とは別の話だ。
才能がなくても合格できる、と言いたいわけではない。正直に言えば、才能はある方がいい。ただ、才能がないからといって諦めるのは早い。才能が顕在化するのは、多くの場合、努力を続けた先だ。その順番を間違えなければ、思っているよりずっと遠くまで行ける。
それが、灘高と東大の両方を経験して、私が確信していることだ。





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