天才の「灘」と努力の「東大」| 勉強に才能は関係あるの?
天才が多い学校と努力熱心な人が多い学校。
両方を経験して感じたことを書いていきます。
天才型の人と努力型の人
私が通っていた灘校には化け物のような才能を持った人がウヨウヨいました。
円周率をノート3ページにびっしり書いたり、英和辞典に載っている単語をすべて覚えていたり、中学生の頃にiPhone向けアプリを開発してヒットさせたり…。
これはどうあがいても追いつけないなと思いました。
生まれつき優れた才能があるに違いません。
しかし、東大に入ると今度は正反対でした。
天才型の人なんてなかなか見つかりません。
9割以上は努力熱心な人です。
例えば、何かを暗記するときも自分に合ったやり方(紙に書いたり、声に出したり)があって、その方法でコツコツ覚えています。
物事を習得するときは、まとめノートを作ってその日の夜にもう一度復習します。
地道な作業ですが、①自分なりの方法を見つけて、②毎日続ける。
これが力を伸ばす最適な方法です。
勉強だけでなく何にでも通用します。
「才能」よりも「好き」を伸ばす
人は誰でも自分だけの才能を持って生まれてきます。
走るのが速かったり、覚えるのが得意だったりという才能は比較的わかりやすいです。
幼いうちにその才能に気づき伸ばす人もいますし、なかなか気づかないまま大人になっていく人もいます。
私はいまだに自分にどのような才能があるのかよくわかりません。才能を見つけるのは大変です。
でも、好きなことを伸ばすのは誰でもできます。
例えば、私は運動が大の苦手です。
走ったり、泳いだり、ボールを投げたり…できません。
毎朝ランニングをした時期もありましたが、頑張っても3kmほどしか走れません。
近くの海で泳ぐ練習もしたことがありますが、すぐに海底まで沈んでしまいます。
風呂上がりに柔軟運動を試しても、つま先に手が届かないまま諦めました。
一方、歩くのは幼い頃から好きでした。
いまでは1週間分の食料と装備を背負って山脈を縦走しますし、厳冬期アルプスでラッセルもします。
他のスポーツは早々に諦めて登山に力を注ぎました。
次第に「歩き」から派生して山スキーや滝の登攀もこなすようになりました。
白銀の世界を颯爽と滑り降りたり、20mもあるような滝にハーケンを撃ちながら登るのは、運動音痴な私からすると真新しい世界で感動しました。
好きを伸ばし続けることで成長を感じました。
努力で世界が広がる
もちろん、ただ単に好きという理由で長距離縦走やクライミングができるようになったわけではありません。
必死に努力しました。
先ほどもお話ししたように、私は運動が苦手です。
運動音痴がいきなり滝を登っても落ちるだけです。
そこで、私は腕力をつけようと思いつきました。
上半身を鍛えるわけです。
ちょうどその頃、ロッキーという映画を見て、鍛えられた肉体に憧れを抱きました。
さっそく自分もチャレンジです。
大自然の中で鍛えたロッキーに見習い、近くの公園にある鉄棒で懸垂しました。
最初は2〜3回しか体が上がりませんでしたが、それでも毎日続けました。ジムには通わないと決めており、腕立て伏せと懸垂を中心に自宅と公園だけで鍛えました。
筋トレを始めて1年後に懸垂を連続20回できるようになり、上半身は見違えるように鍛えられました。
自分は強いという自信も付き、それに支えられました。
難しい滝を登攀する際も滑落への恐怖心は薄れてきました。
山が好きという気持ちに加えて、自分なりの方法で鍛錬を続けてきたおかげで世界が拓けたのだと思っています。
とにかくやってみる
特に好きなことも見つからない、という人も多いでしょう。
そんな場合は、とりあえず取り組んでみると良いです。
私も最初は勉強が好きか嫌いかわかりませんでした。
幼い頃に、親が漢字だらけの新聞を読んだり、知らない言葉だらけのラジオを聞いたりしているのを見て凄いなと思ったのが始まりでした。
当時の私は自然が大好きで生き物の図鑑を何冊か買ってもらいました。
しかし、知らない言葉もたくさんあります。
体長○mmと書かれても何のことかわかりませんでした。「知りたい」と思っていたときに、いくつか教材を見せてくれました。
それを解くと知識も増えて理解できるようになりました。
勉強すれば自分の世界が広がることに気づきました。
聞こえの良い話だと思われるかもしれませんが、そうでもなければ大学受験まで独学を貫き通せなかったはずです。
私は競争・強制・序列化からかけ離れた我流の勉強をしてきました。
しかし、そのおかげで勉強を嫌だと思ったことは一度もなく、楽しみながら自分なりの方法で続けることができました。
このように育ててくれた親に感謝です。
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