灘卒東大生が教える!勉強を楽しむコツ

勉強が嫌いだという人に、一つだけ聞きたい。
あなたが嫌いなのは、本当に「勉強」そのものだろうか。
それとも、「やらされている感覚」が嫌いなのではないか。
勉強には2種類ある
世の中に「勉強」と呼ばれているものには、実は2種類ある。
一つは、作業としての勉強だ。同じ漢字を10回書く。間違えた問題文を5回写す。終わりの見えない問題集を順番にこなす。「やった」という記録は残るが、頭に残るものは少ない。苦痛だけが積み上がっていく。
もう一つは、探索としての勉強だ。なぜだろうと思ったことを調べる。面白いと感じた問題を深掘りする。自分でペースを決めて、自分で先へ進む。気づいたら何時間も経っている。
多くの人が嫌いなのは、前者だ。後者を知らないまま、「自分は勉強が嫌いだ」と思い込んでいる。
勉強が楽しくなった瞬間の話
私が小数を習ったとき、昆虫図鑑の記述が突然わかるようになった。
「体長3.5cm」——ずっと読んでいたのに、物差しで測れるようになるまで、その長さが体感できなかった。小数を学んだ日、図鑑を開いてページをめくった。知識と現実がつながった瞬間、頭の中で何かが光った気がした。
それ以来、算数が好きになった。
この体験は偶然ではないと思っている。「学んだことが、世界の見え方を変える」という体験は、人間にとって本質的な喜びだ。子どもが「なぜ?」と聞き続けるのも、生き物が新しい環境を探索し続けるのも、根っこは同じだ。知ることは、元来楽しいものなのだ。
それを「作業」に変えてしまうのが、強制と反復だ。
「やらされる勉強」は、なぜ楽しくないのか
私が通っていた私立中学は、宿題が膨大だった。テスト3週間前から準備が始まり、同じ問題文を何度も書き写す課題が毎日積み上がった。
正直に言う。私はこの宿題をほとんどサボった。
3の倍数の問題だけ解いて提出した。大問の一つを意図的に空白にして出した。それでも合格できたのは、空いた時間で本当にやりたい勉強を進めていたからだ。
この経験から確信したことがある。
人は「自分で選んだこと」には力を発揮する。「やらされていること」には、エネルギーが向かない。これは精神論ではなく、心理学が「自己決定理論」として裏付けていることだ。自分でやると決めた行動は、強制された行動より継続性が高く、成果も出やすい。
「追う勉強」から「追われる勉強」へ
勉強を楽しむ唯一のコツは、追いかける側に立つことだ。
宿題に追われるのではなく、宿題を終わらせてから先へ進む。授業で習う前に、自分で読んでおく。問題集が終わったら次の問題集を探す。その姿勢が習慣になったとき、勉強はただの義務から、自分の武器に変わる。
私は小2から自分でペースを決めて先取り学習を始めた。小4の1学期には小学全範囲を終えていた。「進んでいる」という感覚が、さらに意欲を生んだ。
電車の中での勉強も、そういう感覚から始まった。往復4時間の通学を「無駄な時間」と感じたことは一度もない。他の受験生が机に向かっている間に、電車の中で問題を解けている。その感覚が、勉強を楽しくしていた。
楽しい勉強への最初の一歩
「先取りなんて無理だ」という人もいるだろう。
その感覚はわかる。でも最初の一歩は、思っているより小さくていい。
今日、教科書の次のページをちらっと読む。それだけでいい。明日の授業が「知っていること」の確認になる。その瞬間、授業の体験が変わる。「また知っていた」という感覚が積み重なると、学校の時間が苦痛ではなくなる。
あるいは、今日つまずいた問題を、解けるまで考え続けてみる。答えを見ない。正解か不正解かではなく、「なぜこうなるのか」を自分の言葉で説明できるまで向き合う。その1問が、100問を流すより記憶に残る。
勉強はスポーツに似ている。最初は誰でも下手だ。基本を身につけ、繰り返し練習して、少しずつ上達する。上達したとき、面白くなる。面白くなったとき、もっとやりたくなる。その循環に入れば、もう勉強は義務ではない。
私が教室を作った理由
灘高と東大を卒業した後、私は小さな教室を作った。
理由は一つだ。「勉強が嫌いだ」と思っている子どもたちに、本当の勉強を体験させたかった。点数を上げることより、「学ぶことが楽しい」という感覚を取り戻させることの方が、ずっと大切だと思っているからだ。
きのくに子どもの村学園に通っていたとき、私は毎日が遠足のように楽しかった。かまどを作り、田んぼで稲を刈り、地元のおばあちゃんから郷土料理を教わった。あの感覚——知ることと体験することが一体になった喜び——が、本来の学びの姿だと思っている。
勉強嫌いの子どもは存在しない。
作業が嫌いな子どもが存在するだけだ。
それが、私の確信だ。





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