東大生が語る、父との遊び|手作りと自然の中で育った幼少期

私は一人っ子だったが、寂しかった記憶がない。
毎週末、父がいたからだ。
父は山が好きだった。物を作るのが好きだった。外に出るのが好きだった。そして、その全てに私を連れて行ってくれた。今振り返ると、父は「教育」という言葉を使わずに、私を育てていた。遊びの中に、全てが詰まっていた。
この記事では、父がしてくれた遊びを6つ、当時の記憶とともに語る。
① 日曜大工——「手を動かして初めて学んだと言える」
父がよく口にしていた言葉がある。「実際に手を動かして体験しないと、完全に学んだとは言えない」
そう言いながら、父はのこぎりを手渡してくれた。
私たちが作ったものは数え切れない。椅子、本棚(10個以上)、表札、整理箱、踏み台、まな板、郵便受け、引き出し、文房具立て——家の中の至るところに父と作ったものが残っている。
父は木に詳しかった。壁に向いている木と柱に向いている木がある。匂いを嗅げば木の種類も品質もわかる。小学生の頃に博物館を訪れたとき、展示されている木材の匂いを嗅いで種類を当てたら、学芸員に目をつけられた。その後、交流が深まって贈り物までもらった。父から学んだ知識が、思わぬところでつながった瞬間だった。
将来は大工になって家を建てたいと、本気で思っていた。小学生のときに実際に小屋の設計図を書いたこともある。基礎から考えた。真剣だった。
今でも既製品の家具をほとんど買わずに手作りし続けている父が、頼もしくて仕方ない。
② 手作りおもちゃ——市販のおもちゃより、山で拾った宝物
我が家にはゲームもDVDもなかった。おもちゃ売り場で欲しいものを見つけて泣いたこともある。車のおもちゃがどうしても欲しかった。母は「買ってあげてもいいんじゃないか」と言ったが、父は「買わない」の一点張りだった。
その代わり、父は何でも作ってくれた。
竹馬、羽子板、クリスマスリース、クリスマスツリー——山に出かけて竹を切り出し、ツルを引っ張り、木の実を集めた。自然の素材で何かが生まれる瞬間の喜びは、既製品では決して味わえないものだった。
週末の山登りは、頂上を目指すだけでなく、遊び道具の材料探しも兼ねていた。父はいつも何かを見つけていた。石でも枝でも、帰り道に持って帰ってきた。
おもちゃがないのが当たり前だと思っていたから、不満は感じなかった。あの頃に培われた倹約の感覚は、今の自分にも確かに残っている。
③ キャンプ——毎週金土日、SUBARUに積み込んで
GWも夏休みも、行き先はいつも山か川か海だった。ホテルにも旅館にも泊まったことがない。海外に行ったこともない。寝る場所はいつもテントか、SUBARUのインプレッサの中だった。
夏休みは、父が毎週金土日に休みを取ってくれた。今から思えば大胆な決断だが、父にとって子どもと過ごす時間はそれだけ優先順位が高かった。
木曜の夜になると、居間にキャンプ道具が並び始める。テント、シュラフ、コッヘル、ランタン——道路地図を広げて、新聞の天気予報を見ながら行き先を決める。インターネットがない時代のことだ。全てがアナログだった。
父から「明日はたくさん遊ぶから、しっかり寝とくんだぞ」と言われても、夜の高速道路が楽しすぎてなかなか眠れなかった。
今でもSUBARUの水平対向エンジンの音を聞くと、あの頃を思い出す。町中でその音が聞こえると、思わず立ち止まって感慨にふける。それくらい、あの赤いインプレッサは私の幼少期と結びついている。
満点の星空。赤々とくすぶる焚き火。川で釣った魚の味。磯から取ってきたウニと牡蠣。山の頂上から見た景色。一瞬一瞬が幸せに包まれていた。
④ 登山——「第二の母は誰か」と聞かれたら、迷わず山と答える
毎週末、雨の日も風の日も雪の日も、登っていた。
小学校に上がる頃には大人並みにガシガシ歩いていた。山で会う人には顔と名前を覚えられ、可愛がってもらった。小学2年生には自分で装備を背負って縦走し、山岳雑誌に紹介されたこともある。
山に登っている間、私はずっと喋っていた。「あのね、お父さん、聞いてよ」と声をかけ続けた。将来の夢、今日学んだこと、面白いと思ったこと——父はその全てを黙って聞いてくれた。歩きながら話す時間が、最高の対話の場だった。
絶対的な根性が身についたのは、間違いなく登山のおかげだ。どんな状況でも歩き続ける経験が、受験でも研究でも、何か苦しいことに直面したときの「ここで止まらない」という感覚を作ってくれた。
大学に入ってからは過激な山行をするようになってしまった。冬の北アルプスにも入るようになった。父に心配をかけた。それでも山を続けているのは、幼い頃に父が山を好きにさせてくれたからだ。
⑤ 自転車——地図に赤線を引く喜び
日曜の登山から早く帰ってきた夕方は、サイクリングに出かけるのがお約束だった。
海沿いを走ったり、山の方まで遠出したりした。帰ってきたら、地図に通ったルートを赤線で引いていく。自分が踏破した道のりが形になって見える。それが嬉しくて仕方なかった。
怪我もたくさんした。それ以上に楽しかった。
今でもサイクリングを続けている。コロナ禍では、大学まで往復60km・3時間を半年間自転車で通い続けた。無茶だと自分でも思ったが、自転車に乗るのが好きで続けられた。その根っこには、父と並んで走った夕方の景色がある。
⑥ 将棋——3日目に父を倒し、1ヶ月で無敵になった
父に将棋を教わった。
3日目に勝った。父いわく「このとき80%の力を出した」らしい。1ヶ月後には、どうやっても父を倒せないということがなくなった。
毎日のように羽生善治の本を熟読し、朝から晩まで将棋を指していた。父がもう相手にならなくなってからは、ひとり将棋で力を伸ばした。
灘高では休み時間に竜王戦(将棋部以外限定)が開催されていた。行き帰りの列車で将棋本を熟読して参戦した。みんな負けず嫌いだった。将棋を通じて培った「相手の手を読む」感覚は、数学の問題を解くときの思考とどこか重なる気がしている。
父が乗り気でなかったもの
正直に書いておく。
レゴ、トランプ、ボードゲーム——これらには全く興味を示さなかった。
レゴはいとこからのお下がりがあった。一人でやっていても飽きると父のところに持っていったが、面倒くさそうに一瞥して終わりだった。トランプは母が相手をしてくれた。人生ゲームは「子育てに悪影響」という判断でいとこに送り返された。おかげでいとこの家に行くたびに人生ゲームが楽しみだった。
室内に戻ると読書に没頭してしまう父だった。「となりのトトロ」に出てくるサツキのお父さんみたいだ、と今でも思う。
今も変わらない関係
帰省するたびに、一緒に山に行く。サイクリングにも出かける。やっていることは子どもの頃と全く同じだ。
パソコンが苦手な父に使い方を教えたり、家の修理を手伝ったりもする。相変わらず、兄弟みたいに接している。
勤勉で、トレーニングを続けていて、物を作り続けている父が大好きだ。
おもちゃもお小遣いもなかったが
振り返ると、我が家はおもちゃもお小遣いも少ない家庭だった。
でも1ミリも不満はない。
手作りのものに囲まれる幸せ。一緒に時間を過ごしてくれる愛情。それらは既製の玩具やお金よりずっと価値があるものだった。
何十年経っても、SUBARUのエンジン音が聞こえると幼い頃を思い出す。キャンプ道具が居間に並んだ木曜の夜を思い出す。山の頂上で語った夢を思い出す。
子どもの頃の記憶は、心の奥底でずっと生き続けている。
父よ、ありがとう。





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