人生選択の一つとしての推薦入学
選択肢の一つとしての推薦入学
推薦入学(すいせんにゅうがく)とは、主に大学や高校が学生を募集する際に、出身校からの推薦を受けた学生を選抜し、主として学力テストを免じて入学させることである。成績(評定)の基準を設けて、出身校からの推薦を求めるAO入試は、これにあたる。また、推薦入学は就職に不利だという噂もあるが、志望校に受かる確率は高い。(Wikipedia)
肯定的な見解、否定的な見解が混在するようです。詳細はwikipediaなどの意見を見ていただくとして、ここでは、我が子に対するアドバイスという形で書いてみます。
推薦入試一点に集中させない
まず、推薦入学を考える際に大切なのは、あくまでこれを一つの選択肢として捉え、人生の中で他の可能性も広げておくことです。ある意味、ご縁を大切にして、積極的に狙ってはいきますが、推薦入試だけに焦点を合わせないということです。一般入試にも対応できる学力を長期的に築くことは必要です。ただし、この学力が共通テストにどんな形で還元できるかを、日頃から意識しておくことも大切だと考えています。
例えば、英語力を向上させるために英単語、読解、速読、リスニングを重点的に学び、英作文も強化することはできます。しかし、相対的には、正確なスペルはあまり重要ではないかもしれません。英語初学者のような過度な書き取り練習は必要がないということです。
将来のキャリア、さらには人生選択をも考慮する
将来のキャリアまでを考慮すると、英作文やプレゼンのスキルの価値が上昇します。さらには、人間性も重要な要素でしょう。当たり前のことですが、推薦入学は推薦する先生方による推薦が不可欠なのです。圧倒的な学力とともに、健康状態、性格、コミュニケーション能力などについて、推薦文を書いてくれる先生方の気持ちの部分も大きいかもしれません。キラリと光る推薦文を書いてもらわなければならないのです。そう考えると、交換留学生などとも積極的なコミュニケーションをすることなども含め、人生を考える上でもとても大切な要素になってきます。
英語スペルの正確性を、重要性が低い項目として挙げましたが、将来の仕事においては、パソコンを利用する場面が多いため、それほど問題にならない可能性があります。また、共通テストにはほとんど影響しないでしょう。
以上まとめると、心身ともに健康には留意しつつ、一般入試にも通用する学力を築いた上で、最終的なスパートをかけることが成功の鍵だと思います。
私の経験
私の経験からですが、海外で研究に従事する際には、人物照会できる人間を3人教えてくれ、というリクエストがありました。そのため、3人のお偉い先生に頭を下げてまわらなければなりませんでした。「仕事ができる。成績がずば抜けて良い。心身ともに健康である。性格が良い。英語のコミニュケーションに問題がない。」などと、誇張気味にでも、推薦文を書いてくれる先生方がいなければ成り立たたない話なのです。
余談
ガクさんのブログタイトルとは逆行しますが、高校入試大学入試においての地産地消を子供達に勧めています。我が家にとって、資産的には、国立大学の医学部はありがたい存在です。どの県にもあり、定員数を考えると、天才的な能力がなくても、高校授業、高額な塾に通わない自宅学習中心の学習により、超えることができる壁であるとの印象を持ちつつあります。
また、必ずしも国立大学医学部が最終目標である必要はありません。他学部だとしても、大学に入った後でも、真摯に学び続けることは大切です。国家公務員や国策的な企業などに挑戦するために、英語力、国語力、論理的思考力、情報処理能力、人間性を鍛えていけば良いだけの話です。
最後に、センシティブな話ですが、競争が激しい推薦入学試験においても、友人を出し抜くという考え方を持つ必要はないと考えています。競争は人生の一部であり、それを否定することはできませんが、人生を考える上で、それはとても小さな問題だと考えています。
追記
私の経験からのエピソードですが、以前、民間企業で働いていた時に、毎日のように一人でツバメの糞の掃除をすることがありました。業務上、これが必須の作業かどうかは議論の余地があったかもしれませんが、私自身は理屈上、業務の一環で必須な作業であるべきだと考えていました。
この問題に対する方針として、以下の4つのアプローチが考えられました。
1. 適切な行政手続きを経て、ツバメの巣を撤去する。
2. ツバメの糞の受けを設置する。
3. 入り口を変更する。
4. 掃除業者と契約して清掃を行わせる。
これらについて、会社の人たちと話し合い、進むべき方向性を決定する必要がありましたが、最終的に、私には何もできなかったのが現実です。ガクさんのブログ内で、偉そうに記述しても、所詮こんなものです。
本題ですが、こうした状況から、自分がどのような人生を望んでいるのかという課題が浮かび上がってきたのです。自分自身がどのように生きたいのか、どのような形で社会や会社に貢献したいのか、という課題を考える機会であったのだと思いました。個人的には、大谷選手のゴミ拾いのように、自分自身の運を引き寄せるためにやることにしました。
仕事の内容に優劣はありませんが、当時の本業務に加えて、立場を超えて、学術的な議論、中間管理職的な役割、雑用、そしてツバメの糞の掃除など、さまざまな仕事を一日中こなしていました。同僚からは「そんなことまでやるの?」と言われることもありましたが…それが私の人生の一部なのでした。
まもなく、良い話があり、その会社を去ることになりました。
Fin.
管理人より
ご投稿いただきありがとうございます。
私はこれまで、推薦入試(または推薦による選抜)のことは詳しく知らないまま生きてきました。初めて推薦書を書いてもらったのは大学院に入る頃です。研究費が関係する申請書を提出する際に大学の先生に書いてもらいました。
そのときになってようやく、自分にはさしたる特徴(他人と比べて際立って評価に値する活動)が無いことに気づきました。自分の感性で気ままに生きてきたツケなのでしょうが、世渡りの術を持ち得ていなかったのです。
(私個人の勝手な解釈ですが)推薦というと、「他者から自分に対する客観的評価そのものであり、世の中一般に表現される個人のプロフィール」だと感じます。簡単に言えば、社会の枠組みに生きる自分です。
一般入試は自分の中で完結する(勉強の成果を答案用紙に表現する)のに対し、推薦入試は社会への視点(どのように活動していくか)が大切だと感じました。
こう考えると、人生そのものが推薦(活動と評価)の連続なようにも思われます。
管理人より 2
追記いただきありがとうございます。
私は人生経験が少なすぎて、何も語ることはございませんが、逆境に面したときは「神様が与えてくれた試練」と思うようにすると気持ちが軽くなることに気づき、以降そのようにして過ごしております。
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