豊かな食卓が全て。灘東大合格を支えた母親

母は料理が得意でした。
学歴があったわけでも、勉強を教えてくれたわけでもありません。でも、毎日欠かさず手料理を作り続けてくれました。それが、私への最大の応援でした。
「中学受験は親が9割」とよく言われます。私はこの言葉を、塾や教材の話だと思っていました。でも今は違う意味で受け取っています。子どもが毎日帰ってくる食卓が、温かいかどうか。それが全てだったと思っています。
食へのこだわりは、父から始まった
食卓へのこだわりは、父の方が強かったかもしれません。
吉野の大木で作られた食卓テーブル。白熱灯の柔らかな照明。吉野杉と檜を使った居間の壁。木の食器と箸。「毎日使うものは上質なものにする」というのが父のモットーで、奈良や和歌山まで足を運んで選んでいました。
車は古いものを何年でも乗り続け、装飾品は一切買わなかった父が、食まわりには惜しみなく投資していました。子どもを育てる場所としての食卓を、真剣に考えていたのだと思います。
母の料理の流儀
既製品は買わない。添加物の多いものは避ける。外食はしない。弁当に冷凍食品は入れない。つゆ・たれ・ドレッシングは自分で作る——母はこれらを黙って守り続けていました。
父が食や健康に関する記事を切り抜いてきても、母は半ばあきれながら、でも素直に取り入れていました。玄米を水につけたり、ごまをすりおろしたりと、父も料理に参加していました。二人のやりとりが、食卓をいつも穏やかにしていました。
私はラッキョウが苦手だった以外は好き嫌いがありませんでした。親が作ってくれたものは、かけら一つ残さず食べました。全部が好きでした。
夕食18時、家族そろって
父が独立して仕事の時間を自由に調整できるようにしたのも、夕食を家族みんなで食べるためでした。
毎日18時に食卓に集まる。それが我が家の習慣でした。
私はその日に学校で起きたことや学んだことを、ひとしきり話しました。嬉しそうに聞いてくれる両親がいたから、張り切って話しました。「すごいなぁ」「どうしてそうなるん?」と父が相槌を打つと、また話が膨らむ。
今から振り返ると、あの夕食の時間はアウトプットの練習でもありました。でも当時はそんなことを考えていません。ただ話すのが楽しかっただけです。
勝負メニュー:鶏ささみチーズフライ
我が家には「勝負メニュー」がありました。試験があるときに決まって登場する、縁起のいい料理です。
鶏ささみを切り開き、青じそとチーズを挟んで揚げる——いとこのお母さんが教えてくれた料理で、「これを食べたから合格した」という話を母が真に受けて作り始めたものです。私が「めっちゃうまい」と言ったら即座に定番メニューになりました。
入試本番のお弁当にも入っていました。とろりとしたチーズと青じそが合わさった味は、今でも食べるとなぜかやる気が湧いてきます。中学受験の頃の空気が、味と一緒によみがえってきます。
母は何も言わずに作り続けてくれました。それだけです。
上京してからも、母の食卓が支えてくれていた
東大に入って一人暮らしを始めてからも、全ての食事を自炊で続けています。カップ麺も冷凍食品も菓子パンも、手を出しません。子どもの頃からそれが当たり前だったので、今でも自然にそうしています。
冬になると、キャンプ用の大鍋に鶏胸肉と野菜を大量に入れて3〜4日分を一気に作ります。母から電話がかかってきてメニューを聞かれ、「鶏胸肉と大根とごぼうと人参を煮込んだやつ」と3日連続で同じ答えを返すと、「あんた大丈夫?」と笑われます。
その電話が、今でも嬉しいです。
母の料理で育った体は丈夫です。上京してから薬のお世話になったことがほとんどありません。食がしっかりしていると、あらゆることがうまく回るというのは本当のことだと思っています。
母から受け取ったもの
父は本や教材で私を育てました。母は料理で育ててくれました。
二人は互いの領域に踏み込みすぎず、それぞれの得意なことを黙々とやり続けていました。対立もなく、穏やかな空気が家の中に流れていました。
母は「作った料理を美味しそうに食べてくれればなんでも許せる」と言います。難しいことは何も考えていなかったのかもしれません。でも、その毎日の積み重ねが、私という人間を作りました。
「健やかに育てばそれで充分」——その想いが、毎日の食卓から伝わっていました。言葉にしなくても、料理で伝えられることはたくさんあります。
母よ、ありがとう。





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