灘卒東大生の幼少期|どこにでもいる虫とり少年が勉強に目覚めた

小学校の卒業文集に「昆虫を研究したい」と書いた。
将来の夢はファーブルだった。炎天下の地面に這いつくばってアリの巣を観察し、朝から夕方まで網を振り回した。頭の中は虫でいっぱいで、食事中も虫のことを考えていた。
そんな少年が、灘高に入り、東大に進んだ。
人生とは、わからないものだ。
虫が、最初の友達だった
私は一人っ子だった。近所に同世代の子どもがほとんどいなかった。
遊び相手を求めて、最初は絵本の登場人物と仲良くなった。母が毎晩読み聞かせをしてくれたおかげで、本の世界は豊かだった。でも、触れることができない。2次元の世界には限界があった。
そこで、実体のある友達を探すことにした。
すぐに見つかった。虫だった。
毎日新しい種類を探しに出かけた。名前がわからなければ図鑑に聞いた。家に連れ帰って飼育し、卵を産ませ、旅行先でも捕まえた。家の中は虫だらけになった。
親は止めなかった。むしろ図鑑を買ってきた。ファーブル昆虫記を渡してきた。おかげで虫への熱は冷めるどころか、ますます燃え上がった。
今振り返ると、あの自由が良かったのだと思う。好きなことを止められなかった子ども時代が、後の勉強への集中力を育てた。
勉強に目覚めた瞬間
勉強を始めたきっかけは、拍子抜けするほどシンプルだ。
書店に連れて行ってもらったとき、計算ドリルが目に入った。「欲しい」と父に言った。それだけだ。
その計算ドリルには、仕掛けがあった。問題を一つ解くたびに、裏表紙の所定の場所にシールを一枚貼る。全部解き終えると、絵が完成する。何の絵かは、最後までわからない。
早く絵を完成させたくて、問題を解き続けた。気づいたら全部終わっていた。次のドリルを買ってもらった。また全部終わらせた。その繰り返しだった。
ある日、変化に気づいた。
そろばんを習っている同級生に、計算スピードで追いつけるようになっていた。テストが誰よりも早く解けるようになっていた。教科書の内容が、先生の説明を聞かなくても理解できるようになっていた。朝の食卓に置かれた新聞の見出しが、読めるようになっていた。
世界が、広がっていた。
それが快感だった。もっと広げたいと思った。もっと勉強した。するとまた世界が広がった。この循環に入ったとき、勉強は義務ではなくなった。
虫と勉強が、つながった日
しばらくして、虫とりと勉強が無関係ではないことに気づいた。
虫のことをもっと知りたくて、図書館で専門書を借りた。難しかった。漢字が読めない。数式の意味がわからない。でも、勉強を続けるうちに、少しずつ読めるようになってきた。読めるようになると、もっと深い本が読みたくなった。深い本を読もうとすると、もっと勉強が必要になった。
好奇心が勉強を引っ張り、勉強が好奇心を深めた。
この構造に気づいたとき、すぐに親に報告した。新しい本を買ってきてくれた。それだけで、また意欲が湧いた。
「好き」と「学び」が螺旋を描くように絡み合っていく感覚——これが私にとっての勉強の原点だ。
山に登り始めて、同じ感覚を覚えた
大学に入ってから、本格的な登山を始めた。
技術を習得するほど、行ける場所が増えた。冬山に入れるようになると、雪に埋もれた稜線が目の前に広がった。ルートを読む力がつくと、誰も踏み込まない沢を遡れるようになった。
虫とりで感じたことと、まったく同じだった。
努力するほど、見える世界が変わる。新しい景色に出会うたびに、もっと先へ行きたくなる。その繰り返しが人を動かす。
私にとって勉強も登山も、本質は同じだ。「新しい世界が見たい」——ただそれだけだ。
両親が育てたもの
両親には出世欲がなかった。子どもに期待を押し付けることもなかった。
「元気に育ってくれればそれで幸せ」と口癖のように言っていた。「好きなことを伸ばしてやりたい」というのが、子育ての方針だったようだ。
だから私は、虫を追いかけることも、計算ドリルを解くことも、自分のペースで好きなだけやることができた。止められたことがなかった。
今の私があるのは、あの自由な時間があったからだ。
虫とり少年が勉強に目覚めたのは、才能でも環境でもなかった。「もっと知りたい」という気持ちと、それを否定しなかった親がいたからだ。
それだけのことだった。





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